アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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こんな時、ナンシー関だったら・・・

こんな時、ナンシー関だったら何て言うだろう・・・?

ナンシー関なき、ここ数年、そんな問いを知らず知らずのうちに発してしまう人は、意外、というべきか、当然というべきか、多いようだ。確か、リリー・フランキーもそんなことを書いていたような気がする。
知らず知らずのうちに、ナンシーを心の指標にしている、私もそんなひとりだ。

ナンシーの批評は、パブリック・イメージに対する疑問であり、破壊でもある。簡単に言うならば、「王様は裸だ。」と、堂々と発言できる稀有な人、それが、ナンシー関だった。
テレビの世界には、テレビの世界の構造というものがあって、私たちは、ついつい、その枠組みに疑問をいだくことなく、そのまま受容してしまう。

「かっこいい」とされている人が登場すれば、あっさり、「かっこいいんだ。」と納得してしまう。その人が、本当にかっこいいかどうか、など考えたり、疑問を呈したりする暇はない。かっこいい、というコンセンサスだけがひとり歩きする。本人も勘違いを続けてしまう。テレビという特殊な世界の怖さがここにある。

ナンシー関の鋭い眼力は、そこにメスを入れるわけだ。
「おいおい、かっこいい、って思っているかもしれんが、本当か?ちょっと見てご覧よ。結構、間抜けだぞ。」
ナンシーは、冷徹にそう言い放って、パブリック・イメージと実像とを剥離させるのだ。
簡単そうに見えて、なかなか出来る芸当ではない。
実際、ナンシーの生前、そして、亡き後も、ナンシー風コラムを書く人は出てきたが、誰一人としてナンシーの域には達していないではないか。
ナンシーの発言によって、それまで私たちがどこかで抱いていた思いが言語化される。「そうそう、自分もそのように感じていたんだ!」とは思うかもしれないが、誰一人としてそれを言葉にして表すことはできなかったのだから、後の祭りである。無意識のうちに感じていることと、明確に言葉にすることとの間には、天と地ほどの隔たりがあるのだ。

「そうそう!」と、膝を叩きながら、ナンシー関の慧眼とそれを表現する文章の芸当に、私たちは、何度、快哉を叫んだろうか。

ナンシー関は、決して妥協しないし、手心も加えない。それだから、批評の対象であるタレント、芸能人との対談は極力断っていたという。簡単なようでいて、これはなかなかできることではない。ナンシーは、私たちがお茶の間でテレビを見ている、それと同じ視線で見ている。例えば、「グルメ批評」などと言いながら、批評の対象である料理人と仲良くなり、特別扱いを受けて嬉しそうにしている輩などは、ナンシー関の爪の垢でも煎じてひと思いに飲んでほしいものである。

こんな時、ナンシー関だったら何て言うだろう。
これからも、この問いを続けていかなければならないと思うと、ちょっと、いや、かなり淋しいものだが、もしも、ナンシー関という人がいなかったら、と思うと、その方が何倍も淋しいに違いない。
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