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ムーンライダーズが「ユリイカ」の特集になっていて驚いた、ということはすでに書いた。
「ユリイカ」は、もともと詩の雑誌として出発したが、その後、サブカルチャー雑誌のようになった。出版元「青土社」には、もうひとつ、同じような装丁の「現代思想」という雑誌があって、こちらは、読んで字のごとく、思想全般をカヴァーする雑誌。
どちらも、売れっ子の新進気鋭の論客たちが執筆していた。当時流行の「ニューアカ」つまり「ニューアカデミズム」系の論客たちも常連だった。
80年代、ちょっとばかり背伸びをしたいサブカル系少年たちは、この2つの雑誌をよく読んでいたものだ。ただ、読んでも意味はわからない。
それでも、すべてわかったつもりになって、読んでいたわけ。
さっぱりわからないものを読むことほど苦痛なものはないのだが、私は、そのことにさえ気づかない、鼻持ちならない馬鹿な少年だった。
「ガロ」という漫画雑誌があったが、ここの出版社を青林堂という。
私は、これを青土社と勘違いしていた。で、「ユリイカ」や「現代思想」を出している会社の漫画なら、これは、きっと「最先端」なのだ、と思い込み、ガロ系の漫画もよく読んでいた。「青」という字しかかぶっていないのに、どうかしている。このようなていたらくでは、朝青龍さえ混同しかねない。
青林堂の漫画、というと、例えば、それは蛭子能収や丸尾末広、渡辺和博、であったりするのだが、そんなわけで、私は、当時、蛭子能収も「ユリイカ」や「現代思想」なのだ、難解で高級なのだ、と決めつけていた。恥ずかしい話だが、仕方がない。
周りの少年たちと何ら変わりはないのに、自分は違うんだ、という青臭い自意識を満たすため、差別化を図るために、「ユリイカ」や「現代思想」を読み、ガロ系の漫画を読んでいたのである。まあ、私だけではなく、そういう馬鹿は多かったことであろう。
あの頃の自分に、今、会ったら、「この、すっとこどっこい。」と、頭を小突いてやりたい気もするが、あれはあれで楽しかったし、青春というのは、往々にして恥ずかしいものだろう。恥ずかしくない青春、っていうのは、どうも信用できない。何しろ、青春っていう言葉自体が恥ずかしいのである。
ただし、今でも、当時の気分を引きずった文章なんかを見つけてしまうと、これは、掛け値なしに恥ずかしい気がする。「ニューアカ」っていう言葉も恥ずかしい。熱海の、ホテル・ニューアカオか?
今回のムーンライダーズ特集の記事のひとつがそうで、閉口してしまった。ま、あ~あ、まだ、こんなやつ、いるんだ~、って、ある意味、楽しませてもらった部分もあるのだけれど。
当時、読んでいてちんぷんかんぷんだったのは、私たちが馬鹿だったせいだけではなく、実際に、いいかげんな文章も多かったのである。
だから、どうした?って、いう突っ込みを常に入れられてしまうところが、80年代のエセ論客たちの決定的な弱点であり、無意味さであったと思う。自己満足は駄目よ、ってことで。
だから、どうした、so what(ソー・ホワット)? っていうと、帝王マイルス。
フランス語で、et alors(エ・アロール)?っていうと、渡辺淳一。
だから、どうした?