アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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ロナウドのサウダージ

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ワールドカップ、ついついテレビで眺めたりしているが、サッカーにそれほどの興味があるわけでもないので、結局のところ、よくわからなかったりする。
ロナウドという選手が人気らしいが、てっきりブラジルの選手かと思っていたら、ポルトガル人らしい、とか、その程度の知識なのである。

ポルトガルも、ブラジルも、もちろん、ポルトガル語だ。

つねづね思うのだが、ポルトガル語は、最も音楽的な言語のひとつではないだろうか。ボサノバも、ファドも、ポルトガル語の響きがなかったら、その魅力のかなりの部分を損なうような気がする。
スペイン語と似ているものの、スペイン語のような強烈なコントラストがあるわけではなくて、耳に心地よく、優しく、どこか愛らしい響きなのだ。ポルトガル語には不案内だから意味はわからないけれど、この言葉が音楽に乗って聴こえてくると、不思議な懐かしさを感じてしまう。もしかして、これが、「サウダージ」なのかな、などと思っている。

「サウダージ」というポルトガル語、普通は、「郷愁」とか、「憧憬」とか、「切なさ」などという訳語が与えられるが、どうもそれだけでは収まりそうにない、豊かなイメージを持った言葉のようだ。

クロード・レヴィ=ストロースはこんなことを書いている。

「〈サウダージ〉saudadeという単語は翻訳不可能だ、とブラジル人はいう。日本人もまた、彼らのことばで〈あわれ〉という単語について同じことをいう。興味深いのはこれらの語にある共通性が見られることだ。どちらの単語にも〈ノスタルジア〉に近い意味を探りあてることができるのだ。しかしそれだけでは誤解しやすい。なぜなら、ポルトガル語にはすでにノスタルジアという言葉が存在し、日本人もホームシックという英語を自分たちのものとして取り入れて使っているからだ。だからそれらの意味はノスタルジアと同じではない。
 語源にしたがえば、〈ノスタルジア〉とは過ぎ去ったものや遠い昔への感情である。一方、〈サウダージ〉や〈あわれ〉はいまこの瞬間の経験を表象しているように思われる。感覚によるか、あるいは想起によるか、いずれにせよ、そこでは人々やモノや場所の存在が、それらのはかなさ、一過性についての激しい感情に浸された意識によって完全に占領されている。
 私が近著のタイトルで、ブラジルにたいして(そしてサンパウロにたいして)〈サウダージ〉という表現を採用したのは、(中略)ある特定の場所を回想したり再訪したときに、この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、という明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられるような心の痛みを喚起しようとしたのだった。」
(「サンパウロへのサウダージ」今福竜太訳 みすず書房)

ポルトガル語の響きが、サウダージそのものなのかもしれない。

ファドやボサノバを聴いていると、時に、懐かしくなって、どこか胸が締めつけられるような感覚に陥ることがあると書いたが、私が、ファドやボサノバに懐かしさを感じる要素はないはずだ。私は、ブラジルもポルトガルも知らないし、ファドやボサノバを聴いて育ったわけではない。しかし、レヴィ=ストロースの解釈によれば、「この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しない」という認識そのものがサウダージに結びつくものらしいから、もともと存在しない記憶へ向かっていても不思議はないかもしれない。


稲垣足穂の「少年愛の美学」において、江戸川乱歩の次のような言葉が紹介されている。

「覚束ない夕暮れ時の戸外で、ひとりで佇んでいる折などに、我身のふとももの内側同士が擦れ合う感触に、なにか遠い天体に通じるような、それとも『死』を想わせるような、甘い、遣るかたのない寂寥の念を覚えた」

もちろん、足穂は、これを「A感覚」に結びつけたわけだが、もしかしたら、これもサウダージなのかもしれない、と思ったりもする。
サウダージという言葉は、個人的な記憶や想い出であると同時に、どこかで、死に結びつくような共通の記憶でもありそうだ。死に結びつくというのでなければ、生まれる前の記憶みたいなものかもしれない。

サウダージに、適切な定義はないのだ。言った者勝ちである。

実は、ポルトガルの首都リスボンには行ったことがある。スペインやイタリアなどとは違う、場末の港町のような、何とも懐かしい風景だった。誰だって、夕暮れ時にこの町を散歩したら、きっと、切なくなってしまいそうな、そんなサウダージな町。

ボサノバも、ファドも、ポルトガル語の響きがなかったら、その魅力のかなりの部分を損なうような気がする、と書いたが、むしろ、ポルトガル語がなかったら、ボサノバもファドも生まれなかったのだろう。

サッカーを見ながら、そんなことを考えた。
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