アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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崇高なる露天風呂

18世紀のヨーロッパに流行した、「崇高(サブライム)」という概念がある。
山奥の絶景、断崖、激流、自然の力に支配された廃墟。そういった、自然の巨大な力を示すようなピクチャレスクな風景を、人々は「崇高」と呼んだ。人知の及ばぬ大自然を人々は畏怖し、眩暈を覚えた。
それまでの古典主義的な、人工的な枠組みを抜け出し、人々は、生の「風景」を見出し、「自然」を発見し、「観光」を始めた。管理されたアンシアン・レジーム(旧体制)からの解放であり、ロマン主義の萌芽である。

18世紀絵画を見渡してみれば、崇高な風景を描いた作品が沢山あることに気づくはずである。
ユベール・ロベール、クロード=ジョゼフ・ヴェルネ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ、サルヴァトーレ・ローザ、みな、「崇高」な風景を描いた画家たちだ。

18世紀の美学に一歩足を踏みこみ、その「崇高」な自然と一体化し、自らの存在までも消し去ろうとする試みが、実は、温泉であり、露天風呂である。屹立した断崖、飛沫を上げる海岸、私たちは、そんな露天風呂が大好きではないか。
全裸という無防備な状態で湯に浸かり、そんな巨大な自然を目の前にしながら、ただ単に風景として眺めるだけでなく、一歩踏みこんで、その崇高な自然の一部になってしまう。

寒い日、お湯に浸かって手足を伸ばした時の気持ち良さ。
緊張していた筋肉が弛緩し、お湯の中に溶け出して行くような錯覚を覚えるだろう。
まるで、母親の胎内に戻ったような心地良さを感じるではないか。まだ自我の発生していない胎児の状態。ここでまず、体が湯に一体化する。
さらに、雄大な風景を眺めながら、私たちはいつのまにか、その風景へと溶け込んでゆくのである。心が風景に一体化する。自我は消滅するのだ。
これが温泉の快楽である。

銭湯の壁画を思い出していただきたい。
富士山、海、例外なく崇高な風景が描かれているではないか。銭湯でも、私たちは、巨大な壁画を眺めながら、その風景と一体化する。自ら風景となる。露天風呂の擬似体験である。

しかしながら、ピラネージの廃墟や、サルヴァトーレ・ローザの崇高な風景が、壁画として採用された銭湯があったら、どうだろう。富士山と三保の松原に比べると、確かに、かなり殺伐としている。これは、日本とヨーロッパの自然観の差でもある。ヨーロッパの自然観では、風景はあくまでも眺めるもの。一体化しようという発想はないのだ。

もしも、ピラネージ温泉やローザ温泉があったら、私は行ってみたい。ゴシック的な屹立した風景に身をまかせてみたいものである。しかし、こんな自然と一体化したら、私はぼろぼろになって温泉を出なくてはならなくなるような気がする。全身傷だらけ、心はトラウマだらけ。体も自我も崩壊してしまう。
崇高ではあるが、危険な温泉だ。でも、やっぱり、行ってみたい。
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