アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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大地震とノストラダムス

5月末から6月初に、関東に大地震があるらしい。
と、さかんに騒いでいる。
そんなことを耳にしていたものだから、夕べの連続地震はちょっとばかり気持ち悪かった。

しかし、よく考えてみると、2ちゃんねるなんかを覗けば、もう、一年中、大地震が予知されていて、大騒ぎをしている。
それで、ちょっとでも、ぐらっときたら、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!! などと嬉しそう。
でも、地震なんて、実際には、毎日、起きているものだろう。
2ちゃんねるではない、週刊誌のようなマス・メディアに、「近日中に東京に大地震か!?」などと書かれることも、年に一度や二度ではない。
もちろん、当たった試しはない。

そりゃ、いつかは東京にも大地震が来るのだろう、それは今日かもしれないし、十年後かもしれない。だから、常に、そのための準備、警戒をしておくことは必要だという意味では、そうやって、メディアが警告するのも大切なのかもしれないが、逆に、こう日常的に「予知騒ぎ」があったんでは、逆効果というものだろう。
「またかよ。」くらいにしか思えなくなって、反対に緊張感が薄れてしまって困る。

義妹は、地割れ恐怖症である。
地割れが起きると、人々が、大きく割れた奈落の底に「あれ~~!!」などと叫びながら落ちてゆく、と信じている。
もちろん、大笑いした。「なわけないだろ・・・!」と言ってやった。
しかし、思い起こせば中学生の時、「地震で怖いものとは何か。」という質問に、私は、「地割れの中に落ちてゆくことです。」と答えて、理科の先生に馬鹿にされたのであった。
理科の先生に笑われたのは、その時と、重力だか引力だかに関する授業で、「アメリカのミステリー・スポットというところでは、低いところから高いところに物が転がったりするんですよ。」と異論をはさんだ時だけだ。
ミステリー・スポット、あれは単なる目の錯覚だろう。

義妹と私を襲った地割れ恐怖症の根っこは、「日本沈没」である。
神戸地震や新潟地震などという実際の大災害より遥か前に、「日本沈没」ブームの洗礼を受けた世代であるから、地震というと、まず、あの映画の映像が頭に浮かんでくるのだ。一種のトラウマでさえある。
だから、地震は怖い。

ところが、である。
何度も言うが、「地震予知」だの「予言」というものは、当たった試しがない。
「日本沈没」の同じ頃に、「ノストラダムスの大予言」もブームになった。馬鹿な子供だった私は、予言を信じて、自分の人生が、あと二十数年で終わるのだとあきらめた。
「1999年7の月・・・」という、あの文句を暗記している子供は、当時沢山いたのだ。
「そして、もう、晴れることはない。」・・・なんて。

その後、この予言、いや、正確には五島勉の著書が、いかに出鱈目か、ということがわかるようになった。ノストラダムスの予言、いや、詩は、英訳されたものを読んだくらいでは理解できない。フランス語だけではなく、古プロヴァンス語などの知識も必要だ。予言書の題名「les centuries」も、「諸世紀」ではなく、実際には、「百詩篇」とでも訳すべきもので、つまりは、予言ではない。
それがわかった頃には、「大予言」に対する恐怖はなくなっていたが、それでも、小さい頃に感じた不安は体のどこかに巣食っていた。完全な解毒にはいたらなかったようだ。

そして、1999年8月1日を迎えた夜、文字通り、身も心も、大予言から解放されたわけだ。
ただ、小さい頃からずうっとつきまとってきた、そして、常に未来に用意されていた「大予言」が、あっさり過去のものになってしまうというのも、何とも寂しいものである。
私たちは、もう、「ノストラダムスの大予言」後の世界を生きているのだ。そんなこと、当時は考えもしなかった。

「ノストラダムスの大予言」と共に成長し、それを克服してきた私である。FM電波だか、地震雲だか知らないが、その程度のことでは、悪いが、びくともしない。

と言いたいところだが、これが気になってしまったりするところが、臆病者の悲しい習性ではある。

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