アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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プロレスとは何か?

猪木イズムとは、プロレスというジャンルの境界に次々と爆弾を投下し、挑発し、かく乱させ、プロレスの領域を強引に押し広げるものであったことは、前回、書いた。

台風が近づいているが、もう一度、考えてみよう。プロレスとは何か、を。

かつて、旧UWFが崩壊して新日本に戻ってきた時、プロレスとしては、とてもかみ合わない試合をしていたことを知っている人がいるだろうか?
ロープに飛ばされるのを拒否したり、大技にくるところに脇固めしてみたり。もちろん、今から見ると、十分プロレスの範疇に入るものであるとは言え、当時は、とても興奮したものである。それは、異なる価値観を持つ者同士の試合が行われることにより、それまで見えなかった「プロレス」的なものがはっきりと見えてきたからだろう。つまり、プロレスとは何か、という視点が生まれてきたということだ。「暗黙の了解」とかいったものが、顕在化してしまったのである。UWF対新日本プロレスという図式は、そのような違和感を見せるためのものだったのかもしれない。違和感は、緊張感を生む。

プロレスの価値観の中からだけ見ていると、プロレスとは何かという設問が出て来にくい。あるいは、見えてこない。

例えば、「もの」に関する概念というのは、それ以外の「もの」との差異、関係性で生まれてくるもの。「自我」も、外部からの抑圧があって初めて誕生する。
そう考えると、「プロレス」内にとどまっているだけでは見えてこない「プロレス」というものが、外部からの侵犯によって見えてくる、あるいは、改めて議論されるということは十分考えられる。
結果的に、「プロレス」という特殊なジャンルは、そういう問い、議論をも含めて「プロレス」なのだ。

特に、新日本プロレスは、猪木の格闘技路線などで、外部との関係により、そのポジションを確立してきたという事実もある。外部との関係性によって、「プロレス」の概念が確立されるわけだ。
何しろ、「プロレス」って、ルールがありそうで、ないのである。柔道も、ボクシングも、ルールは明確である。一線を超えれば、ただちに失格となる。プロレスには、失格というものはない。何しろ、境界線が曖昧なのだ。プロレスは、常に、そういう「境界線上」で「揺らいで」いる。

例えば、1999年1月の、橋本真也対小川直也。
ここ数年では、あの問題の試合が実に興味深かった。そう、完全に目がいっていた小川が、謎の「ガチンコ」をしかけた、あの一戦である。この試合に関し、レスラーやファンたちは、熱い議論を戦わせたもの。つまり、あれは、プロレスなのか、それとも、ガチンコなのか、何か、謀略があったのか、と・・・。
蝶野は、「バーリ・トゥードをしたければ、そっちへ行け。これはプロレスの試合なのだ。」と発言して、小川を批判した。蝶野の言い分は筋が通っている。確かに、結論として、小川のやったことは「プロレス」ではないかもしれない。しかし、あれはプロレスか否か、を考えることもまた、「プロレス」そのものであり、「プロレス」の特殊性であり、懐の広さなのだ。いや、「プロレス」という定義そのものが明確ではないから、異質な事件が起きた時に、初めて、「プロレス」が立ちあがってくる。
小川は、「プロレス」を考えるひとつの機会を与えてくれたことは間違いない。


「現代アート」について考えてみよう。
現代アートとは、額縁の中の美醜を判断するものではなく、「アートとは何か」を考える試みである。作品は、「美しいか否か」という問いではなく、「これはアートか」という問いを発している。結果的に、それが「アート」であろうとなかろうと、見る側が、「アートか否か」を考えることその行為自体が「アート」なのだ。

1917年、ニューヨークでの展覧会、マルセル・デュシャンは、「泉」と題して、レディメイドの便器を出品した。デュシャンが作ったものではない。そのへんで買ってきた何の変哲もない便器である。これのどこがアートなのだ、馬鹿にするな、という真っ当なものから、いや、これもアートになりうる、という奇矯な声まで渦巻く、美術史上の大事件となった。
もちろん、便器それ自体は、アートでも何でもないだろう。しかし、デュシャンは、私たちに、アートとは何か、というテーマについて考え、議論するきっかけを与えた。現代アートというものが誕生したのである。

現代アートを観た時の、我々一般人の反応というのはこうだろう。
「え?これのどこが芸術なの?」「何を言いたいの?」「こんなの芸術でも何でもない!」
ところが、そう考えている時には、私たちは、すでに「アート」に片足を突っ込んでいる。現代アーティストたちは、多かれ少なかれ、作品を通して、「アート」そのものに関する問いを、私たち観客に突きつけているのである。

プロレスも同じである。
馬場さんのプロレスから、大仁田の邪道プロレス、アメリカン・プロレス、ストロングスタイル、総合格闘技、ハッスル、果たして、どこまでがプロレスか、どこまでがプロレスではないか、そう考える時、私たちは、すでにプロレスに片足、いや、両足を突っ込んでいる。

答え?そんなものは、二の次なのである。
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