アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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怪人二十面相のアジト

江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ第1作「怪人二十面相」で、小林少年が二十面相に捕まり、アジトに監禁されるという場面がある。明智探偵の不在中、果敢にもひとりで二十面相に挑み、まんまと一杯食わすのであるが、最後の最後でその手中に落ちてしまうのだ。
小林少年は、窓から外を眺めてみる。


まどの外、広っぱのはるかむこうに、東京にたった一ヶ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう。
                        (江戸川乱歩「怪人二十面相」)

戸山ヶ原。
長いこと、私は、小林少年が監禁されていたのは現在の戸山ハイツのあたりだとばかり思っていた。つまり、明治通りの東側である。箱根山もそびえる、この戸山ハイツ一帯は、戦時中には陸軍の軍用地であったばかりか、国立予防衛生研究所というものがあり、ここは悪名高き731部隊の実験施設であったと言われている。実際、15年ほど前、施設を建て直す際にも、その犠牲と目される人骨が発見されたばかり。昼間でも暗く鬱蒼とした箱根山の周辺では、今でも怪異現象の目撃が後を絶たないという。都内有数の心霊スポットとして知られる場所なのである。
だから、二十面相のアジトがあったとしても少しもおかしくない、と思っていた。そのつもりで、アジトを見つけようと、箱根山の周辺をうろついてみたこともある。

ところが、どうも違うらしい。
確かに、この一帯も、戸山ヶ原と呼ばれていたことは間違いない。何しろ、この戸山ヶ原、べらぼうに広い。戸山ハイツの付近を東端とするならば、西端は、今ではジャニーズ劇場となったグローブ座のさらに向こう側、小滝橋通りあたりまでということになる。陸軍の総合的な訓練施設だったわけだから、広くて当然なのだ。

二十面相のアジトがあったのは、箱根山付近ではないようだ。

そのことを知ったのは、富田均著「乱歩『東京地図』」という本によってであった。

「大人国のかまぼこ」というのは陸軍の実弾射撃場であるという。この実弾射撃場は昭和7年か8年に作られた、鉄筋コンクリート製のもので、全部で七棟あったらしい。当時の写真を見ると、確かに、巨大なかまぼこのような建物がいくつも並んでいる。「怪人二十面相」が書かれたのが昭和11年のことだから、当時、完成したばかり。だからこそ、戸山ヶ原のランドマークとして、「東京の読者諸君」にはおなじみだったのかもしれない。
射撃場の東端には、戦後、交通公園が作られて、私たちが子供の頃にはゴーカートなども走っていたが、そういえば、公園の敷地の内外にあった、射撃場の名残である土塁でよく遊んだものだ。川の土手のようにひときわ高く盛りあがった土塁が、数十メートルも続いていて、その中腹あたりに空いていた穴に潜る。戦争の時に何かに使っていたらしい、ということは知っていたが、それが、何なのかは具体的にはわからなかった。ただ、子供たちの遊び場としてはなかなか面白かったということは間違いない。
知らないうちに、当時、夢中で読んでいた少年探偵団シリーズの舞台で遊んでいたことになる。

ところが、今日、書店で光文社文庫版の乱歩全集を眺めていたら、上に引用した文章の部分、「東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、陸軍の射撃場をご存じでしょう。あの大人国の蒲鉾を並べたような、コンクリートの大射撃場です。」となっているのを発見した。私が持っている、ポプラ社版、そして、講談社の全集とは異なっている。註を見てみると、時代の流れを反映し、光文社版にはいくつかのヴァリアントがあるようだ。
最初からこちらを読んでいたら、かくも長き勘違いは起こらなかっただろうに。

アジトの場所の特定についても、簡単にはいかないようだ。
アジトが原っぱ全体の西北に位置しているということから、普通に考えれば、諏訪通りの山手線のガード付近。今は公営住宅が建っているが、20年くらい前までは野球のグラウンドがあったことを憶えている。
さらに想像力を広げて考えると、富田氏は、むしろ、山手線の線路を越えてさらに西側かもしれない、と言う。小滝橋通りに近いほう、今で言えば、ジャニーズ専用劇場となったグローブ座や社会保険中央病院、国立科学博物館の分館があるあたりである。

小学生の頃、この近くの水泳教室に通っていたのだが、向かいあたりから伸びた道筋に、古びた建物が並んでいた。これは、当時、まだ残っていた都立衛生研究所。戦後、こちらでも毒ガスが発見されたという話がある。さすが陸軍の軍用地だった戸山ヶ原、この手のきな臭い話題には事欠かない。オウム真理教の富士山総本部みたいなものだ。

ほんの少し、ミステリーの系譜をたどろう。
大正の終わり頃、社会保険中央病院の向かいあたりに、岡本綺堂が住んでいた。
「半七捕物帳」に続く「三浦老人昔話」の語り部役である三浦老人の住居がやはり大久保、綺堂宅のすぐ近くである。もちろん、三浦老人とは架空の人物であり、作者の綺堂が、自らの住居の近くに、三浦老人を住まわせたというわけだ。この三浦老人は半七の友人であり、明治になって大久保に隠居してきたことになっている。綺堂が老人から聞いた江戸市中で起きた奇妙な話を聞き書きしたのが、「三浦老人昔話」なのである。
今井金吾著「半七は実在した」によれば、ふたりの住居は微妙にずれており、三浦老人宅は、「日出園」と「萬花園」という、ふたつのつつじ園にはさまれたあたりではなかったかという。綺堂宅よりやや南側、大久保通りへと抜ける道筋である。
もっとも、このあたり、今では、百人町と呼ばれている。
大久保や百人町は、昔から、つつじの名所であった。

「今とちがって、その当時の大久保のあたりは山の手の奥で、躑躅(つつじ)でも見物にゆくほかには余りに足の向かないところであったが、(後略)」(「桐畑の太夫」)と、綺堂は書き、「なにしろここは躑躅の咲くまでは、江戸の人の足踏みするところじゃありませんよ。」(「鎧櫃の血」)と、老人に言わせている。
しかし、ひとたび、つつじが咲く頃になると、「夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。」「青葉の陰にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅いたすきの女中達がしきりに客をよんでいるのも、(後略)」(「置いてけ堀」)などと書いてもいる。

大久保では、小学校の校歌にまで、つつじが登場する。

つつじ園からそう遠くない場所に、二十面相はアジトを構えていたわけだ。
「怪人二十面相」が昭和11年。岡本綺堂が住んでいたのが大正の終わり。ちょうど一回り前のことになるから、綺堂も、まして、三浦老人も、二十面相のアジトの存在はさすがに知らなかったことであろう。


「怪人二十面相」江戸川乱歩(ポプラ社ほか)
「乱歩と『東京地図』」富田均(作品社)
「ちくま日本文学全集 岡本綺堂」(筑摩書房)
「半七は実在した」今井金吾(河出書房新社)
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