アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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黄昏考

秋。黄昏の美しい季節がやってきた。
西の空がかすかに赤みを帯びてくる時間帯が好きである。
遠くの家々のシルエットがくっきりと浮かび上がるのを見ていると、いつしか、切ない気分になってくるものだ。黄昏は、いつもデジャヴュに満ちているような気がする。
もっとも、実際には、そんなシルエットは、もう私の街ではお目にかかれない。遠くを見渡そうにも、すぐ目の前のビルディングに遮られてしまう。赤塚不二夫や西岸良平の漫画に登場するシルエットを眺めつつ、懐かしい思いに耽るだけである。

プラネタリウムも、昔は、街のシルエットが切り絵のように壁一面に続いていたものだが、最近では、克明に描かれた施設の周囲の風景が投射されるのには驚いた。自分の家まで見つけることが出来るのである。確かに感心はするのだが、プラネタリウムが始まって、明りが落ちてゆき、次第に切り絵が浮かび上がってくる時の、あのわくわくした思いは味わえない。リアルならいい、というわけではない。光と影の幻燈じみたものを見てみたいという思いもある。

人間は、寝入りばな、完全な睡眠状態へと入る前に幻覚を見ることがあるという。入眠時幻覚などと呼ばれるものがそれで、うつらうつらと意識が遠のいてゆく状態であり、いわゆる金縛りなども、この時間に起こりやすい。入眠時とは、いわば、起きている状態と睡眠状態との境界線である。赤い夕日に包まれた黄昏時も、昼間と夜との境界線にあたると言ってよいだろう。一日のうちのささやかな空白であり、どこからか異質なものが忍び込んでくる時間である。

「トワイライト・ゾーン」というアメリカのドラマがあったが、これだって訳せば「黄昏の世界」、つまり、不思議なことが起こる世界という意味にとれる。

黄昏、という言葉は、「誰ぞ彼」から来ているという。つまり、行き交う人々の顔がはっきりと見えなくなって、見分けがつかない、そんな不安な時間を指す言葉である。逢う魔が刻などともいうが、一日のうちで、ふと魔がさす時間、何か不思議なことが起こる時間なのだ。
「神隠し」が起こるのもたいてい、黄昏時だ。夕方、遊びから戻る途中の子供が蒸発し、それっきり帰らなくなってしまうことがある。昼でも夜でもない。夕凪のようにふと時間が止まると、その間隙をついてどこからか魔が現れて、子供をさらってゆくのだろう。

東京の闇を描き続けた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズのひとつ「宇宙怪人」の冒頭に、次のような一節がある。

・・・・電燈のひかりと、空のあかるさが、ちょうど同じくらいという、あの、なんとなく、へんな気もちのする時間でした。すれちがう人のすがたが、ひどくぼんやりして、影のように感じられる、たそがれのひとときです。

何とも見事な書き出しではないか。読者は、いきなり、物語の冒頭から黄昏時に吸い込まれ、「宇宙怪人」の登場に立ち会うわけである。少年探偵団シリーズといえば、これを怪人二十面相シリーズと言いかえてもよいわけで、「宇宙怪人」の正体は、もちろん、二十面相である。二十面相は、「宇宙怪人」だけでなく、黄昏を利用して様々な怪人に扮し、少年探偵たちを翻弄する。「青銅の魔人」「妖怪博士」そして「地底の魔術王」・・・と、荒唐無稽とはいえ、二十面相は神出鬼没、まさに「黄昏の怪人」なのだ。そして、二十面相と少年探偵たちの勝負は、さながら黄昏の焼け跡で影踏み遊びに興じているもののようにも思えてくる。

それからさらに数十年たった今、世の中から薄暗がりや空き地が消えてゆき、このような影踏み遊びはどうも難しくなっている。二十面相は変装の名人であったが、近頃のように、夜でも昼間のように明るい時代では、変装も思うようにはいくまい。ガス燈がぼんやりと灯るような、そんな薄暗い路上でこそ、変装は効を奏するのだ。もしも、今の時代に二十面相が出現したとして、往年の名声、いや悪名を轟かすことができるかどうか、それは残念ながら難しいと言わざるをえない。

二十面相に味方したのは、街である。昭和二十年代という、まだ戦後の、焼け跡であり、薄暗い夕暮れである。さらにさかのぼって、二十面相がデビューしたのは昭和十一年、宇宙人だの、青銅の魔人だの、陳腐ともいえるような変装、というよりも変身を可能にしてきたのが、そんな街の風景であった。しかけがどうであれ、不思議なものがまだ街中に存在していたのだ。 

だからといって、今では街から不思議なものはなくなりつつあると嘆く必要は必ずしもない。そう簡単に逢う魔が刻はなくならないらしいのだ。二十年以上前になるだろうか、日本中に「口裂け女」が出没し、子供たちの恐怖心をあおったことがあった。下校途中の子供たちの前に現れ、「わたし、きれい?」と尋ねるという、あれである。下校途中というのだから、これもまぎれもなく黄昏の出来事なのだ。この噂は何も地方だけに広がっていたのではなく、当時東京の高校生だった私の耳にも届いていたから、いくら東京が明るくなって空き地がなくなろうとも、子供たちの想像力は黄昏を求め続けているということだろう。学校という建築物がいくら立派になろうと、「学校の怪談」や「トイレの花子さん」が生き延びているようにである。

   時は今、罪人の友、愛すべき、たそがれの時、
   足音しのび、共犯者のように近づく

           ボードレール(堀口大學訳)

黄昏の秋。
光と影が作り出す曖昧な境界線をいつまでもさまよってみたいものである。
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Comment

魔羅一郎 says... "烏が鳴くからあの世に帰ろうよ"
闇猫先生、今日は。

たそがれ刻は不思議な時間ですね。
逢魔ヶ刻の夕闇を、ヒグレマグレとかヒグレサグレなどとも称しますけれど、どこかドグラマグラにも似た響きがあり、妖しくも魅力的です。
夕暮れの中で全てが判然としない薄闇に溶け込み、妙な懐かしさ、訳の分からない郷愁に胸を締め付けられる時、異界への憧憬に焦がれます。
明るくも無い、暗くも無い。
そんな時、私はふと禅の公案、「父母未生前」ってヤツを思い出します。父母未生前は「自分が未だ生まれる前の顔、両親も、祖父母も生まれる前の顔」と云うものですが、禅の師は弟子に、「その顔で私の前に現れたら弟子にしてやる」と無茶な事を言うのでしたね。
黄昏時の魔の時刻、なんだか、漠然と「生まれる前の、その顔」を思い出そうとしている自分がいる気がしませんか?

口裂け女、懐かしいですね。「ポマード!」と呪文を唱えると難を逃れられるのでしたっけ?100メートルを三秒で走るとか、オリンピックや世界記録なんぞを、遥に凌駕する驚異的な脚力を誇る女でしたね。
2005.09.27 12:14 | URL | #- [edit]
猫目 says... "夕焼け小焼けで・・・"
ミスター魔羅、おはようございます。

烏と帰る先は、やはり彼岸ですか?
「生まれる前の、その顔」ですか。アイソレーション・タンクのような状態を思い出しますね。あるいは、海にぷかぷかと浮かんだ時のような・・・。
まさに、主客未分の桃源郷でしょうか。

口裂け女。
今でも、100メートル3秒で走れるんでしょうか。ってことは、200メートルは6秒くらいですか。マラソンでも、そのスピードは衰えないのでしょうか。

消息が気になりますね。
2005.09.28 11:38 | URL | #GaU3vP2. [edit]

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