アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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ブルース・リーとゴシック・ロマン

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ブルース・リーの「燃えよドラゴン」の舞台は、香港沖に浮かぶ絶海の孤島、悪のシンジケートの首領・ハンの要塞である。ハンは格闘技・武器のマニアであり、趣味が昂じて、世界中から一流の格闘家を集めてトーナメントを開くという設定。この組織はまた、人身売買、麻薬製造の疑いがあり、その犯罪を暴くべく乗り込むのが、少林拳の使い手にして英国政府の使命を受けたブルース・リーなのだ。自ら武道の達人であったハンとブルース・リーが格闘を繰り広げるのは、古今東西の武器をコレクションした、まるで博物館のような部屋であり、見るものを惑わす鏡の部屋である。

難攻不落の要塞と、その内部に作られた広大な迷宮。
このイメージはしかし、もちろんブルース・リーのオリジナルではない。
ちょっとばかりさかのぼって、18世紀のゴシック・ロマンに話を移そう。

1763年に出版されたホレス・ウォルポールの「オトラント城」をもって嚆矢とするこの文学ジャンル、フランスでは「暗黒小説(ロマン・ノワール)」などとも呼ばれている。要するに、いかにも中世的な紋切型、城や血まみれの尼僧、幽霊、甲冑、地下牢などの要素を巧みに配し、読者をして恐怖に震え上がらせる怪奇小説の始まりともいえる。特に、舞台装置としての城は必要不可欠。天にむかって聳え立つゴシックの城は、神への志向を意味する。そうなってくると、今度は自然と、暗黒の地下空間も隠し持つわけだが、そこに幽閉されるのが物語の主人公たる「被害者」である。暗黒小説の多くは、女主人公がそれに当たる。
「燃えよドラゴン」では、女主人公というものはいないが、ハンの要塞の被害者たちも、その暗黒空間に幽閉されていたことを思い出していただきたい。

しかし、一般的にいってゴシック・ロマンの舞台装置が単なる「恐怖のお膳立て」にしか過ぎず、いわば子供だましであるのに対し、この舞台装置から一切の幻想を消し去り、極限まで機能的に利用したのがマルキ・ド・サドである。
特に、「サド・フーリエ・ロヨラ」(みすず書房)においてロラン・バルトが「サド的モデル」と認めた、「ソドム百二十日」の舞台であるシリング城は、黒い森の奥に外界から隔離された状況に作られ、城には権力者たる城主によって彼らの欲情を満たすべく集められた数十人の少年・少女が、朝から晩まで事細かに規定された規則に従って生活するのである。
ゴシック・ロマンの作者たちが意識的にか無意識的にか、城内に残した闇に、サドは光を当てて迷信の類を追放するだけでなく、隅々にまで規則を行き渡らせるのだ。だから、サドの城には一点の曇りも曖昧さも存在しない。

やはりバルトは、サドの世界について、「サド的部落の民俗誌を粗描することが可能である。」としている。実際、シリング城はサドの詳細な設計図に基づいて再現可能なのである。「ソドム百二十日」は、小説というよりもサド的世界の博物誌、あるいは、秩序そのものであり、ゴシック・ロマンの混沌とした空間に確固たる秩序を与えた。俗に言うカオスからコスモスへの転回が見られるわけで、そこに読者の想像力のつけいる隙はない。サドの不自由さと、隔絶されたシリング城の環境とはアナロジカルに対応している。シリング城の内部はそのままサドの脳髄である。
そして、そのシリング城のモデルは、実在する城で、サドの持ち物であったラコスト城であることは指摘されている。

要塞、あるいは城内の迷宮では、私たちの理性は機能せず、遠近法が狂う。

18世紀イタリアの銅版画家ピラネージの「想像の牢獄」シリーズは、まるで廃墟のような広大な牢獄を描いたものだが、そこには数々の巨大な拷問道具が用意されている。ところが、わずかに描かれた人間ときたら、不自然なほどに小さくて、私たちのあたりまえの遠近法はまるで機能しないのだ。あるいは、そんな牢獄のような場所では、人間など取るに足らぬ存在であることを示唆しているのかもしれない。人間などという概念、理性はここでは通用しない。あえて言うならば、この迷宮は、私たちの無意識、ひいては死へとつながっている。

それは、ハンの迷宮も同じである。おびただしい武器を置いた陳列室、入る者の感覚を狂わせる鏡の間、ピラネージやゴシック・ロマンが描いた迷宮の小道具には事欠かない。人間の理性が通用しない空間、そこへ単身乗り込むのが、ブルース・リー、こんなことができるのは「世界最強の男」しかいない。

ブルース・リー、あるいは、監督のロバート・クローズが、そこまで意識して映画を作ったとは思えない。もちろん、ゴシック・ロマンの伝統は、知らず知らずのうちに、映画や小説の中に定着しているのである。

ドラキュラや、フランケンシュタインの城はもちろん、カルト・ムービーの元祖ともいうべき「ロッキー・ホラー・ショー」だって、この伝統を的確に捉えたパロディだ。

ゴシックな空間で戦うブルース・リー。すでに体はぼろぼろで、死は直前にまで迫っていた。その鬼気迫る表情も、ゴシック。
人質たちを死臭漂う地下から解放した代償だったのか、ブルース・リーは、早すぎる死を迎えるのである。
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