アングルのバイオリン

violon d'Ingres. 趣味か余技か、それとも悪ふざけか・・・ とにかくこれが私の日常。

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アジェの街

やっぱり、ウジェーヌ・アジェにたどりついてしまった。

ウジェーヌ・アジェ。
1857年、ジロンドに生まれたこの孤独な写真家は、ひたすらパリの路地や街並みをカメラに収め続け、膨大な量の写真を後世に残している。
彼のファインダーに切り取られたパリは、しかし、私たちがパリと聞いて思い浮かべるような華やかなものではなくて、その石の冷たい肌触りをじかに感じられるような、どんよりと重く沈んだ街。
それは、アジェが生涯変わらずに持っていた姿勢によるものだろう。彼は、何もきらびやかな観光用の写真や、ファッション雑誌に使うような写真を撮ろうとしていたわけではないのだ。ただ、博物館や画家に資料として売りつけるための、パリの「記録」写真を撮して回っていただけなのである。いわば、博物館に保存するための標本や図鑑。
ヴァルター・ベンヤミンに言わせると、「犯行現場」写真ということになる。まさに、身も蓋もないリアリズムの写真。

ディレッタントであったラルティーグとは、正反対の写真家である。

パリの街を描いたということで思い出すのは、黄金時代のフランス映画だ。例えば、ルネ・クレールの「巴里の屋根の下」や「巴里祭」などといった作品が頭に浮かぶが、これらが制作されたのは1930年代であるから、随分と昔の話。何しろ、「巴里の屋根の下」に至っては、フランス映画最初のトーキーといわれるほど。それだから、クレールの映画を観てパリという街に憧れを抱いたなどというのは、どうも月並みな話であるばかりでなく、私のような世代の人間にしては何とも古臭いようにも思われるのだが、正直なところ、これらの映画から受けたパリの印象というのは鮮明に記憶に残っている。

ところが、私は、クレールのパリが、スタジオに作られたセットだということを知った。嘘のパリをてっきり本物と思って観ていたのである。まんまと一杯食わされたわけだ。つまり、クレールのパリは抽象化されたパリである。本物よりもパリらしく出来ている。街の風景や小物、ある時は汚れのひとつひとつが、計算され、絶妙な配置によって表現されているのだ。本物よりも本物らしいが、実は存在しないパリ、クレールの脳髄の中のパリなのである。

それにひきかえ、アジェのパリは、アジェが何を望もうが、何を意図しようが、お構いなく、ファインダーの向こうに存在するパリであり、抽象的な部分などどこにもない、きわめて物質的なパリである。アジェの脳髄の外にあるパリ。
 
最初から何かを狙って撮っているわけではないから、ファインダーの向こう側からどんどんと思いもよらない現実が入り込んでくる。クレールのセットであれば切り捨てたであろうもの、つまり、もしかしたらパリらしくないのではというものまで、アジェのファインダーは拾ってきてしまう。

実際、写真の面白さはこんなところにあって、絵画であれば、キャンバスの中のすべては画家が描かなければ生まれえないのに反し、写真は、写真家が意識しようとしまいと、写るものはどうしたって写ってしまうものだ。その結果、私たちは、写真家が予測しえなかったもの、思いがけないものを写真の中に見つけることになる。猥雑な世界そのものが、印画紙に記録される。世界とは、しかし、もともと猥雑なものだろう。そして、パリのような都市だって、もともと猥雑なものなのだ。

アジェの写真は、そんな当然のことを改めて思い出させてくれる。作家の意識を越えたところから入り込んでくる思いがけない世界が広がるのである。それだから、マン・レイをはじめとするシュルレアリストたちに評価されたに違いない。

そんな、アジェの撮したパリにはあまり人影が見当たらない。
彼の写真のパリがゴーストタウンのように感じられるのはそのためだ。まるで、人々がこの街を捨ててどこかへ消え去ってしまったかのようにも思える。実際には、彼の時代の撮影技術では、まだ露光時間が長くて、スナップのように街をゆく人々を捉えることが難しかったということもあるだろうが、そんなことはどうでもいい。結果として、アジェの写真が、人間を配することによってその表情や仕草から生じてしまうドラマのようなものを拒否することとなったことが興味深い。もちろん、娼婦や物売りなどが登場することだってあるのだが、どれも、背景の街の質感に比べると、どうもちっぽけに感じられてしまう。あくまでも、写真の主人公は街、そしてその質感なのだ、というようにも思えてくる。
もっとも、主人公などという俗っぽい言葉をアジェの写真に使うのもどうかしていて、猥雑なる世界に主人公などいるはずもない。

ただ、ただ、物の集積。
アジェの写真を眺める楽しさは、ここにある。
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Comment

魔羅一郎 says... "光景"
猫っち、こんにちは。お元気でしょうか?
王より王党、とでも云うのでしょうか。本物よりも過激に本物らしいもの。
パリよりもパリらしい偽作のパリ。最近の映画では、『アメリ』のパリがそうですよね。
以前、中国を旅行した時に感じたのは、本物の中国よりも、横浜の中華街の方が、余程中国らしく見える事でした。きっとそれは、ハリウッド映画の奇妙なジャパンが、西洋人の目にはより日本らしく映る様なものでしょうか。
写真は、シャッターを切れば誰でも「そのもの」を写し取るものの様でいて、実はそうじゃありませんよね。現実には、構図によって切り取られた風景なんて存在しないのですから、常に写真家の思惑が反映された(偶然にであれ)作品だと云えましょう。リアリズムから、イズムを取り去っても、リアルにはならない・・・そんな気がします。

アジェの写真は、ピンホール・カメラ、或いはカメラ・オブスクラを技術上の限界から、意図せずに用いた結果と似たものに思えます。ノスタルジーとは、近くて遠いもの。手を伸ばせば触れられそうなのに、決して触れ得ぬもの。アジェならずとも、当時の写真は、例え人物を写したものであっても、現代の感覚とは相当に乖離のあるものでしょう。意図的にピンホール・カメラを用いて、後頭部が地面に接する程にふんぞり返った、カイゼル髭をたくわえた礼装の男を撮影したとしても、滑稽な味は醸し出せても、当時の雰囲気、つまりノスタルジーを喚起させる空気までは、再現出来ない気がします。
それとも、アジェの魅力と云うのは、ノスタルジックでありながら、その硬さによって、ノスタルジーを感じさせない、これから二百年の後、現代文明が衰退して古に回帰しつつある光景だと空想しても、妙に納得してしまう、その超時代性にあるのでしょうか。

最近、私はパリよりもロンドンに興味があって、シャーロックホームズや切り裂きジャックが闊歩した、十九世紀イギリスの下町を感じさせてくれる資料を探しています。写真でもエッセイでも構いませんが、何かお奨めがありましたら、どうか教えて下さいね。
2005.12.15 12:00 | URL | #- [edit]
猫目 says... "シャーロック!"
魔~羅~殿、こんばんは。

中華街と本物の中国、
ハリウッドのニッポンと、本物の日本、
確かに、抽象化されたものほど、本物臭いんですよね。
クレール映画の美術を担当した人も、確か、フランス人ではなかったはずです。

ビクトリア朝ですね。
漱石も、南方先生もいましたね。

私が持っているのは、「シャーロック・ホームズの見たロンドン」(JICC出版)という、ホームズの事件簿を追いながら、当時の写真を沢山載せたものや、「シャーロック・ホームズ事典」(パシフィカ)も随分前に眺めていた本です。

富山太佳夫の「シャーロック・ホームズの世紀末」(青土社)は、読まれましたか?
2005.12.15 20:18 | URL | #GaU3vP2. [edit]
idealistk says... "猫ひろし・・・"
関係ない話題で恐縮です。昨日、「猫ひろし」を初めてじっくり鑑賞しました。いわゆる「ひろし」とは全く似ても似つかぬものだったのですね・・・。ああいう形で女の子にもてる人もいるのですね。思わぬ死角でした。

ロンドンといえば、ロンドン塔の幽霊がビデオに撮影されたというYahoo newsを見たことがあります。イギリス人らしい冗談なのでしょうか。再生してみると、何だか、古くさい衣装の婦人にも見えて不気味なものでしたよ。
2005.12.15 22:47 | URL | #- [edit]
猫目 says... "猫と舘"
猫ひろし。
気になる存在ですね。

イギリスでは、よく幽霊がビデオに撮影されますね。いくつか見たことがあります。
何と言っても、お化けの本場です。お化け話には事欠きません。
ロンドン幽霊ツアーなんかもあるそうですね。
コリン・ウィルソンとも言葉を交わしたことのある、魔羅氏の報告を待ちたいものです。
2005.12.17 15:22 | URL | #GaU3vP2. [edit]

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